映画監督 大林 宣彦
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OKWave > OKStars > vol.28 映画監督 大林宣彦

「愛する人の死を、あなたは受け入れることができますか?」
2005年、直木賞作家・重松清が発表した連作短編小説「その日のまえに」。「涙が止まらず通勤電車の中では読めない」と反響を呼び“輝く!ブランチBOOK大賞”に選ばれた本作が、3年を経て、日本の映像史を切り拓き、多くの映画作品を世に送り出し、映画ファンを魅了し続ける映像の巨匠とも呼べる大林宣彦監督が最高のキャストとスタッフでついに映画化。

「死」をドラマチックに描くのではなく、誰にも普通に訪れる「その日」として厳しく見つめながら、その恐れや悲しみを軽やかに飛び越える、巨匠・大林宣彦監督の斬新な映像表現。映画では実に20年ぶりのコンビを組む市川森一が脚本を担当(撮影台本として、大林宣彦、南柱根が参加)した、まさに巨匠大林の渾身の傑作だ。

『10QUESTIONS』第28回目は、話題作「その日のまえに」で再度注目を浴びる、日本映画界きっての映像作家、大林宣彦監督が登場!
いまだに映画ファンを魅了してやまない“尾道三部作”『転校生』『時をかける少女』『さびしんぼう』でアイドルを映画女優として起用し、CMディレクターとしてTV界に新風を吹き込んだ。そんな日本の映画界を牽引する大林宣彦監督にとって映画とは、そして映画を創るということとはどういうことなのか?何故、“大林組”と呼ばれる俳優は彼を慕うのか。今回のインタビューで分かった気がする。大林宣彦監督にとって、映画とはいつも夢であり、彼の隣にいるものであり、人生の一部なのである。

N:ナレーター  O:大林監督

この原作のどこに惹かれましたか? また映画化しようと決意させたものは何でしょうか?
「その日のまえに」

O:10の質問、ということでどのくらいの長さで答えればいいのかな?

N:ボリューム満点でお願いします(笑)

O:では、長くお話させていただきますね。
僕は小説を映画にすることが多いですけど、映画にしたい小説には決まりごとがあります。それは、、映像が決して浮かばない小説であることです。

なぜそうであるかというとね、例えば「黄色いスーツを着てました」って書かれていると、その通り映画にすればいいし、観客も原作通りだって思うわけで、それだったら映画化する必要はないわけですね、僕に言わせれば。つまり、なぜ原作者がその人に黄色いスーツを着せていたかが大事なことであって、そうすることには何かしらの心理的な要因があるはずですね。映画を作るときも同じで、心理的な要因を考えてここは黄色がいいと僕が思っても、残念ながらみんながそう思うわけではないです。例えば、カメラマンの人は赤がいい、と言うかもしれないし、その気持ちだったらブルーを着るかも、とか照明さんは白い衣装に照明で色を付けますよ、とか。はじめから黄色と書かれていたら僕たちが想像意欲をかきたてられるものがなくなってしまうのですよ。

そう書かれていると作るのも楽なんだけど、観客も楽なんです。なぜなら原作通りだから。でも、そういう楽はものを見る喜びではないだろう、と僕は思います。本当の小説好きな読者なら、黄色のスーツと書かれるよりも、私だったら赤だ、とか私だったら青だ、等、それぞれが想像して読むとさらに小説だって面白くなるだろうし、そういう読者の想像力も含めてどう誘っていくかが大事なんであって。うん、映画はそういうところでは不便であってね、仮に赤を選んだりすると、赤でしかないんです。読者や観客が、「いやそこは私だったら黄色なのに」と思いながら見ても赤でしかないわけで、だんだんその映画が嫌になってしまうでしょう。だから小説を映画にすることはリスクはいっぱい背負うわけだけど、今で言う“オンリーワン”ですよね。それぞれの違いをどこかで確認しながら見る、ということが物を鑑賞するということの一種の知的な楽しみでもあるわけね。所詮、文学と映像とではメディアが全く違うわけです。言語世界をそのまま引き写すのでは全く面白くもなんともないと。

で、この重松さんの原作も、はじめて読んだ時に、そういう読者の想像力に委ねた純文学のような小説に出会ったと僕は思ったわけです。それが感動の理由です。映画になり易い小説って文芸小説が多いわけです。文芸小説って実は黄色いとか赤いとかを丁寧に書いてあげて、それでお客さんをもてなすという明治座の舞台のようなものです。映画だってお正月映画みたいなものならそれでいいわけです。従来、そういうものばっかりでした。純文学の映画化ってあんまりされてませんよね、それはやっぱりそれだけのリスクが大きいわけですよ。

でも僕は商業映画の会社の仕事らしい仕事を一度もやったことがない人間です。インディーズで個人映画ばかり作ってきましたから、そう意味で言うと、純文学的な、パーソナルな世界を描くことの方が、僕の創造意欲を掻き立てるわけです。それが心理的な理由です。

直接のきっかけとしては僕と50年一緒に映画を作っているパートナーの恭子さんという、僕の奥さんでもある方ですが、この人が本を読んで薦められました。で、その『その日のまえに』を持って新幹線に乗って、号泣してみんなに呆れてられたんですが(笑)、それは小説に感動したこともあるけど、実は俺の作るべき映画に出会った!というそっちの感動の方が大きかったですね。

実は重松さんの小説を読んだのもこれが初めてだったわけです。だから重松清という作家をよく知らず、その日東京に帰ってきて、彼の事務所が斜め前ですから、そこのポストに切手も貼らずに手紙を投函し(N:笑)思いだけは果たした、と。でもね、現実には出版社にそういう部署があって出版社に映画化件の申し入れをしなれければならないのですよ。それが作者に伝わって、という経緯を踏むわけですけど、僕は個人的にどうなるか分からない、きっとだめだろうと思っていました。

現実に、8社から既にオファーされていたようでした。そのオファーは、この7本の短編の最後の3つ(「その日のまえに」「その日」「その日のあとに」)を中心に映画化したいというものでした。僕は最初からこの7編を一括して映画化しようと思っていたので、重松さんもオファーに応えていただいたのは、せっかく自分が書いた人間模様を、文芸映画風のトレンディーなドラマにされるのはやだよ、というところはあったんじゃないかな。 それで、重松さんの出版社の方から会いましょう、という話になって一緒に食事をしたわけです。その時にね、重松さんが大変チャーミングだなあと思ったエピソードがあります。実は重松さんとはこの本を読む1週間くらい前にNHKの番組で、たまたまはじめて一緒に出た時が初対面だと思っていたんです。そして食事の時の会話で、重松さんが雑誌記者だったときに手塚治虫さんが亡くなって『手塚治虫特集』をやるということで僕のところにインタビューに来たことがあったという話になったんです。手塚さんは僕にとって大切な作家さんですし、重松さんにとってもそうだった、といことで、実はそういう出会いがあったと。

さらに、重松さんは「転校生」の頃からの僕の映画のファンだということを知るわけです。そういうご縁が既にあったんですね。そして重松さんからは、僕は小説家として『その日のまえに』という想を練って小説に無事できました。読者の方にも喜んでいただきました。だから僕の仕事としてはもう終わったことです。だから、これを大林さんが映画化されるならどうぞ、お好きに。と言ってくださいました。「ただし、今すぐにこれを映画化されたら、話題の原作に乗っかった映画だと思われて大林さんもそれじゃ癪だし、そうじゃないでしょ」とも仰りました。「だから3年くらいお待ちになって、そうしたらみんな忘れるから、それから映画にされたらどうですか。」と。これはまさに重松さんが僕に何を期待していたかの表れですよね。僕もかといってね、映画化権を今譲りますといわれて、幾らですといわれても一文もないですよ、そんなお金は。どう映画にするか考えてお金も集めなきゃなりませんから。だから3年余裕があるというのはありがたくもあるんですね。
それで3年経ってからやりましょう、ということになって、それで僕はその間に「転校生 -さよなら あなた-」「22才の別れ Lycoris 葉見ず花見ず物語」の2本を撮って、そしたら約束の3年だから、重松さんとの個人的な友情の約束としても映画化しないといかんなと。そしてその時に私は70歳の古希を迎えている年で、これは別の話になるのです(笑)

N:ええ!?続きが聞きたい。。(笑)

映画化にあたってイメージした点や、気をつけた点はありますか?
「その日のまえに」

3年経ちました、いよいよ映画化しなきゃいかん、そこで当面するのは“人集め”、“お金集め”ですね。僕が人差し指を出して「この指とまれ〜」というと、俳優さんたちも僕のスケジュール見ながら自分のスケジュールを入れてくれるような人たち“大林組”と呼ばれる人たちがいて、幸いなことに普段はそういう人たちと作っているので、人は集まります(笑)。大変なのはお金の方ですね。たまたま、この原作と会う直前に「理由」という映画を作った時のWOWWOWさんと会ったので、どう思います?って聞いてみたところ、是非やりましょう!とお答えを頂きました。それでパートナー組んでいただいて、どういう映画にするかを考えはじめました。

映画もビジネスですからヒットして収益も上がって、作った人の名誉も望まれますから、そういう映画にしようと思ったら、まぁ有名俳優さん、タレントさんを、大体男女5人ずついらっしゃるんですけど、そういった人たちを使えば黙ったままでも全国200館300館でもいけて、それはそれでいいんだけど、この頃だとシナリオも読まれなくなって、誰が出るかで、製作配給が決まっちゃう。企業として考えればそれもそうですよ。でも僕のようなインディーズは頑固にそこに反発するんで。俺はそういう商業主義の映画は作らないぞ、歴史に残る、アートとしての映画を作るんだ、てところが僕の刺激になっているので。でも大林組の俳優さんしかやらないから、メジャーは相手にしてくれないですよね。売れている俳優さんやアイドルさんはうちの映画を相手にしないんです、とくにプロダクションはね。うちは掛け持ちも無しですから。映画俳優といえば歯を抜けと言われれば抜くし、そういう覚悟を求めるからね。そうやって作ると、せっかくWOWWOWフィルムさんが乗ってくれても、プライベートなアーティスティックな作品として終わるよ、ということは念押ししておかないといけない。

もしあちらが無いものをねだるなら、僕が節を曲げて大スター5人を使って、掛け持ちも認めてやるかどうか、それならパートナーシップを断つだろうなと。そしたらパートナーがまた粋だったの、重松さんと一緒で。大林さんが代表作だと思う作品を作ってくださいと。これもなかなかのもんですね。ああそうかと。もちろん僕も、プライベートな作り方はしていますが、多くの人材とお金を集めて作るわけだから、どの作品もヒットする作品には仕上げていますよ。多分観てくださる方はみなさん気に入っていただける作品のつくりにはなっています。だけど、そこまで届かず観てもらえないことの方が多い。まあ大スターが出てたり、映画館が多ければいいけど。昨年の封切りの「転校生 -さよなら あなた-」が映画館にかかるのを楽しみにしてますって、いまだに僕の友人から手紙がくるくらいだから。上映とっくに終わってることすら伝わらない(苦笑)。僕がせっせと手紙でも書かない限り、僕のファンや友人ですら見逃してしまう。そんなこともありますが、パートナーがいいよといってくれたので大林組の映画にしようと。
ところが、と話を続けようか。

N:はい、お願いします(笑)

O:ところが「大林宣彦の作品」とは何ぞや、代表作とは何ぞや、と考え始めてしまったわけです。その時に今年の1月9日に僕は古希を迎えました。自分の身に古希という字が降りかかるとは思わなかったですよ。70歳というのは僕にとって大事件なんです。これは同年輩の方なら分かると思いますけど、僕がこどもの頃は人生は50年で、日本人の平均もそんなもんだったわけです、子供が育たないからね。僕がこどもの頃は戦争があって、僕の身の回りにいた上の人たちが戦争というものに連れられていった。僕が小学校、正しく言えば国民学校に通っていた頃は、僕は21歳になったら死ぬんだと思っていましたから。その頃のこどもは、みんな与謝野晶子が書いた詩を知っていたわけです。「君死にたまふことなかれ」のことね。この弟は21で死んでいるわけですよ。だから僕たちがこどもの頃は21で死ぬんだって思って生きてきたんです。それが戦争が終わって、高度成長期があって、そのドタバタのなかで僕は成人を迎えて、25歳の時には半分まできたなと一瞬思ったわけです。残りの人生どうしようかって。その記憶は鮮明に覚えています。

50歳になったときはもうこれで死ぬんだと。生きてていいの?とは思ったけど、もう時代がそうじゃないし、平均寿命もどんどん伸びていたから自分もまだいけるかなと。60歳になったときは、映画の先輩といえば小津安二郎さん、こどもの頃から愛してきたちょっと兄貴分の手塚治虫さんもみんなちょうど60歳で死んでいるんです。だから怖かったです。でも実際には60といっても年は感じないよね。同じように飯は食うし酒も飲むし。だから、観念と実感の間がなかったんですが、70の古希という字を書いてみたら待てよ、と思ったわけですよ。ここ10年くらいを振り返ってみたわけです。たとえば上田にある無言館という戦没画学生の絵ばかりが飾ってあるところ。みんな21とかで死んでいて。名もない画学生ですよ。でもこの描かれた絵が僕の好きなゴーギャンなんかの絵のごとく、僕の心を打つんです。それからなぜか戦没した学徒たちの遺書や手紙というものがやたらと気になって読んでいたんですね。21で死んだ人たちがこんなに美しい日本語を書くのかと。そんな時に僕の友人でリタイヤして尾道に帰った人が、青い顔して話したんです。2週間に一遍、庭の草むしりをしていると3年くらいたったら、庭の草花が2週間単位で生きはじめたと。2週間で花を咲かせるものは咲かせて、ちゃんと枯れてしまう。それを聞いてあっと気付いたのは、彼らは21歳までで花を咲かせて生きていたんだと。だから当時の21歳の方がそんな絵を残したり、文章を残すというのは、そこでもう美しく完成していたわけです。それに比べて、70まで生きた俺は彼らの絵や文章ほど美しいものを表現したのかといえば、とてもそんなことをしていない気になった。ずいぶん愚かに自堕落に生きてきたな、人生無駄遣いしたなと。もう一遍50年前に戻ってやり直したいなと生まれてはじめて切実と思ったんです。

生きるってことは、僕は映画を作って生きてきたわけだから、じゃあ俺が作ってきた映画もそういうものだろうと。過去をとやかく言ってもしょうがないから、これから作る映画を処女作として作るつもりで、画学生や、恋人や子供に遺書を残した戦没者のように、自分も1本映画を撮ろうと思った時にあったのが『その日のまえに』だった。そうなると、『その日のまえに』が違う小説に見えてきたわけです。『その日のまえに』を世の中的に分かりやすく言えば、泣きの涙の難病ものですね。死んでいく妻を見送る夫や家族の物語です。でも、ちっともそういう風には見えなかった。むしろ、私はしっかり生きましたと。21までだったけど人を愛し絵を残し文章を残して子を残し死んでいきました、誉めてくださいと。ご苦労様と。この21年は誇りでしたといって死んでいった人たちの気持ちの方がリアリティを持っていた。だからここで死んでいく和美という妻も、あんたが死ぬのは悲しいね、ということではなく、私が死ぬのを誇ってという声が聞こえてきたんです。そういう局面でこの小説が見られたということは、ちょっと自分でも新鮮な驚きで、70歳まで待ってよかったなと。3年待たずに67歳で撮っていたら、きっと死にゆく妻を見送る映画になっていたなと、悲しみの映画にしちゃったなと。ようやく死んでいく妻の声が聞こえて、誇らしく胸張って見送られていく側の物語が描けるぞと気がつくわけです。

考えてみると僕はこれまでも死んだ人が出てくる映画をたくさん作っていて、どれも死者の方が生者よりもちゃんと生きていて、生きている人間の方が亡霊のような感じで、そんなテーマで映画を作ってきたのも本能的に21歳で死んだ人たちへの畏怖の念ですよね。それが無意識のうちに働いていたと思うんですよ。それが70歳になってようやく明確に言葉として自覚されたと。それをどうやって描こうかとなったときにね、3番目の話になりますが、俺は本当に生きてなかったんじゃないか、イコール本当の映画を作ってなかったんじゃないかと。・・・そう思ってはみたんですが、僕はやはり自分の映画のことは分かって作ってきたんですよね。こういう風に絵を撮ってこういう風に音を付けて編集して、さらにこうひねれば、大林宣彦らしい映画ができるし、さあ皆さんどうだいいいだろってね。でもそれが俺の映画じゃなかったとしたら、これから作る俺の代表作は今の俺ですら分からないものが出てこないといかんぞと。分かったと思って作ると、「大林宣彦の世界」の映画でしかない。でも映画はもっと広くて深くて俺の分からない映画があるはずだと。それに出会いたいなと思ったときにね、ふと映画が実感されてきたんですよ。それは何かこうふわっと透明な澄み切った空気の中に「映画」というものが浮かんでいるわけです。無重力で、形は分からないんです。なんだか途方もなく大きくて、広くて深くて高くて、重たいのか軽いのか分からないんだけど確かに映画というものはあるなと。宗教家なら神だと言うかもしれないですね。自然界の意思として、本能のような存在として映画というものがあって、時々手を差し伸べると、ここに映画があるよと触れられたら嬉しいなと。そういう映画が作れたらいいなと。できればそれをそのまま僕が手の平に乗せてお客さんのところまで届ける役割を自分が担えたらこんな幸せなことはないだろうと。そんな幸せな映画を見つけて、目には見えないだろうから手を差し伸べて触れてみたいなと。お昼のお弁当の鮭にも映画があるかもしれない、俳優さんがちょっとくしゃみをしたその中にも映画があるかもしれない。そういうものすべてに自分の手を差し伸べてみようと。

そんな考えなので、現場では何か上の方から、これをやれ、あっちに行け、ここに向かってカメラを廻せという声が聞こえたら、俺はその通りにやるからそれについてきてちょうだいと。それについて聞かれても説明できないからなって。ただし、今回は現場で椅子は要らんぞと。つまり、僕がベテランの大巨匠になったと思ったら椅子に座ります。椅子に座ってやるのは巨匠の仕事です。座ってても全てが見えるわけですからね。僕のような分からん新人になっちゃったら、駆け回るしかない。駆けていって手を差し伸べたところに映画があればようやく撮影ができる。それだけは守りました。今となって思えば、今回作った映画は、やっぱり僕にも見えませんし分かりません。でもどこかにある「映画なるもの」に手を触れられたなという実感だけはあって、至福の様な喜びを映画を観てくださる方たちに差し出すことは少しはできたかな。というのがこの2番目の質問の取りあえずの切り時かな(笑)

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