OKWAVE Starsは、ここでしか読めない、俳優・女優、映画監督、アーティストへのインタビューと、彼らからの「質問」に「回答」できるOKWAVEの特別企画です。

Vol.735 映画監督 我妻和樹(映画『願いと揺らぎ』)

OKWAVE Stars Vol.735はドキュメンタリー映画『願いと揺らぎ』(公開中)の我妻和樹監督へのインタビューをお送りします。

Q 監督は震災以前から宮城県南三陸町の漁村「波伝谷(はでんや)」の方々と関わってきたそうですが、波伝谷のどんなところに惹かれたのでしょう。

A『願いと揺らぎ』我妻和樹波伝谷の人たちの結びつきの強さに惹かれました。地域のつながりや結びつきというと美しいイメージやノスタルジックな印象を受けるかもしれませんが、実際にはもっと生々しいもので、いいことばかりでもありません。しがらみのような煩わしい面もありますが、そうした面も含めて、人と人とが深く関わり合い、支え合いながら生きている姿に魅力を感じました。

Q 震災前に撮られた波伝谷のことを映画『波伝谷に生きる人びと』としてまとめあげられましたが、『願いと揺らぎ』では震災後のことを記録しています。映画としてまとめようとしたきっかけをお聞かせください。

A『願いと揺らぎ』我妻和樹僕は2005年3月に初めて波伝谷に入りました。その時は大学の民俗学の研究室で波伝谷の人々の暮らしを徹底的に調べて本を作るというプロジェクトのためでした。学生の一人として参加し、3年かけて調査をして、本が完成した2008年3月に大学を卒業しました。
卒業後は一人で映画製作をしていこうと、波伝谷の人たちの日常にカメラを向けました。そして3年間撮影した果てに震災が起きてしまいました。その震災までの3年間に記録した240時間の映像から紡ぎ出したのが、2015年に劇場公開した『波伝谷に生きる人びと』です。そこには今「被災地」と呼ばれる場所にかつてどのような営みがあったのかが生き生きと描かれています。
今回の『願いと揺らぎ』は、震災から1年後のことがメインになっています。震災後、『波伝谷に生きる人びと』の編集をしながらも避難生活などを撮っていましたが、震災が起きたことで波伝谷の人たちの生活はそれ以前とはガラッと変わってしまい、全く別な問題で溢れていて、どこをどう撮って行けば良いのか分からなくなりました。
しかし震災から1年近くが過ぎ、ある程度落ち着くと、被災された方々が震災前の生活に思いを馳せるようになっていきました。その中で、波伝谷で一番大事にされている行事である「お獅子さま」を復活させたいという声が上がりました。「お獅子さま」は獅子舞が全戸を回って地域の厄払いをする行事で、波伝谷の全戸全世代が関わります。地域のアイデンティティとも言えるような行事を復活させることで、物理的にも精神的にもバラバラになってしまっていたみんなの心をつなぎとめることができるんじゃないかということで、若い人たちから声が上がったのです。僕自身、震災後も記録はしていたけれど何をどう撮れば良いのかわからなくなっていた時期だったので、その話を聞いて、どこか震災前の時間と震災後の今がつながるような感覚を覚えました。
実は、2005年の3月に初めて波伝谷に来た時に出会ったのがこの「お獅子さま」でした。それ以来、僕にとっても「お獅子さま」が行われる3月の第2週の日曜日は一年で一番特別な日になっていました。だから、波伝谷の人たちにとっても、自分にとっても大事な行事を復活させる過程を撮っていけば、何かを伝えられるのではと思いました。つまり、被災した方々が自分たち「らしさ」を取り戻す過程をカメラに収めようとしたのです。それが結果的には、2005年3月から2017年3月までの12年の時間を凝縮した大きな作品になってしまいました。

Q 波伝谷の方々は撮られることについてどう感じていらっしゃったのでしょう。

A『願いと揺らぎ』我妻和樹皆さんは僕が2008年に撮影を開始した時は映画製作のために撮っているとは思っていませんでした。これまでの延長で何かを調べているんだろうと思われていましたし、僕もそれまで何の実績も下積みもなかったので「映画を撮っている」とは言えずに、どこか遠慮がちに撮らせてもらっていました。上の立場の人から守られてある意味記録係的に居場所を与えられていたので、「我妻がカメラを持って動き回っているのを否定したらかわいそうだから受け入れてやろう」という空気感が震災前からできあがっていました。それで震災後もやはり映画監督だとは思われていませんでしたが、受け入れてもらえていました。
ただ、震災後のこの撮影に関しては、僕自身は「ちゃんとこの人たちのことを伝えるんだ」という姿勢に切り替わりました。というのも、みなさん被災して大変な時に、これまでの自分と同じだったら、ただの邪魔者にしかならないと思ったからです。皆さんも僕のそういう変化を感じていらっしゃったと思いますので、被災されてからためこんでいたいろいろな感情を僕を通して出していただいたところはあるかと思います。

Q 何か難しさを感じたことはありましたか。

A『願いと揺らぎ』我妻和樹震災が起きる6年前から波伝谷の人たちと関わってきましたので、震災前のことを知っている人間という安心感を感じる方もいたと思います。また、震災当日は僕も被災して翌日から避難所でともに過ごしたので、「お前も一緒に被災した仲だしな」と言われることもありました。ですので、部外者ですが、半分地域の方たちと同じように見られていたところはあります。
一方で波伝谷のいろいろな立場の人と関わっているので、情報が入って来やすい立場にいます。獅子舞の準備をみんなが進めている中で、お互いに本音を言えないんだなと感じる場面もありました。特に若い世代代表のミキオさんは「本当はこうしたい」と思っていることを目上である契約講(自治組織)の講長さんに伝えられない姿を見てきましたが、僕の口からミキオさんの本音を講長さんに伝えるわけにはいかないですし、当人たちの人間関係を尊重して、それをかき乱さないように撮っていかなければならないと思っていました。
完成した映画を観てもらう時も、講長さんは自分の知らないところでの自分への批判を目の当たりにした時にどう思うのか、批判した側もそれを映画に使われてしまったらどう思うのか。地域のデリケートな人間関係を余計に突いてしまうような心配はありました。
撮影することはいろいろな影響を与えることですが、地域の人たちの文脈を尊重した上で表現しなければならないということに気を使いました。地域の実情を知らない外部の人の中には、そうした文脈を無視して一方的に何かを推し進める人もいるかもしれませんが、その背景にはいろんな人の思いがありますし、地元には地元の論理があるということを大事にすることを心がけました。
この映画では当事者を撮りながら、どこまで部外者の自分が踏み込んでいったら良いのかという距離感や関係性を描いた作品ということもできます。震災後に支援者やボランティアとして地域の中に入って同じような経験をされた方も多いと思います。どこまで自分が関わっていいのか、これは被災地に限らず、まちづくりの現場のような、地域に入って関わっている方も同様かと思います。よそ者と当事者の関係性を織り込んだ映画ということもできます。
もちろん、波伝谷の方が排他的ということではありません。むしろよその人を自分たちのペースに乗せてしまうところがあるので、他地域から来た震災ボランティアさんが口々に「こちらの方はみんな魅力的」と言っていました。思っていたイメージと違うということもあると思いますが、地域の中でみんなが関わりながら人付き合いやマナーを学んでいるから、いろんな気遣いが日頃からできるのだと思います。それが日常生活にも自然と出ているから魅力的だと感じるのだと思います。

Q 本作を作ったことでの気づきや発見は何かありましたか。

A『願いと揺らぎ』我妻和樹『波伝谷に生きる人びと』では最後が震災で終わるので、「この監督は何かに撮らされていたのでは」と言われることがたびたびありました。実際、撮っている3年間は「何でこんな思いをして撮っているのだろう」と思うこともあったので、実際そうだったのかもしれません。
今回も、何かの流れに導かれた感覚があります。というのは、この映画の主題である獅子舞は2012年の4月に復活するのですが、最初はその時点で映画を終わらせるつもりでした。実際、お獅子さまの復活で撮影を一度終了し、その後は『波伝谷に生きる人びと』の編集と公開で忙しく過ごしていたので、当時撮影した映像を何年間も編集できていませんでした。そのため年を経るごとに、逆に2012年4月時点で映画を終わらせていいのかという疑問が出てきました。そこには一番撮りたかったミキオさんに最後までぶつかり切れなかったことも関係していました。
映画を観ていただければわかりますが、ミキオさんのことを2012年当時はちゃんと撮ることができていませんでした。ただ、カメラのまわっていないところではやりとりがあって、僕自身はミキオさんの思いを根幹に据えて映画を作りたかったので、映画ができたらまず最初にミキオさんに観てもらおうと思い編集をはじめました。ミキオさんにOKをもらわなければ、波伝谷の人たちに見せることもできないと思ったからです。そうして映画のラストで幹生さんに編集した映画を観てもらっているシーンが出てきますが、そのときに、絶対に当時押し込めてしまった想いの蓋が開いて言葉が出てくると思い、カメラを回していました。そして観終わった後にインタビューさせてもらい、数年間の空白を経て、ようやく当時の思いを引き出すことができました。
震災から1年後という時期は先行きが見えなくてひとつひとつの判断が正しいかどうかそのときには誰も決められませんでした。そうした時期を抜けて、2016年に仮設住宅を出て高台に家を建てて、ようやくこれまでの自分たちの歩みを振り返れるようになった。そのときにはじめて意味づけできるものなのだと思います。そうした時間の厚みは、2012年時点で映画を完成させていたら表現することはできませんでした。そういう意味では、これからが地域の人たちにとって本当の復興のスタートだと思うのです。そういう時期に当たって、ミキオさんのインタビューができたことで、しかるべきタイミングでこの映画が生まれ落ちたような感覚になりました。何かに導かれて然るべきものができあがったと思いましたし、普遍性がより増したと思います。

Q 手応えや映画祭での反響などはいかがでしたか。

A我妻和樹最初は完成しても劇場公開は難しいかもしれないと思っていました。しかし観てくれた方々から「前作より良かった」という声を多くいただいたので、それなら公開できるようにしなければと動き出すことにしました。ほかにもドキュメンタリー映画だけど劇映画以上にドラマチックと言ってくださる方もいました。人間の心の揺れ動きや地域で生きている人たちの心のあやのような、ドキュメンタリーでは捉えにくいものを描き出すことができたと感じています。
山形国際ドキュメンタリー映画祭のインターナショナルコンペティションに入選しましたが、審査員の方からは、長期間にわたる誠実な記録活動が実を結んだ素晴らしい作品でしたと言っていただけました。また作り手自身の想いがあふれている作品を上映したい、という言葉をいただいていたので、きれいにまとめるというよりはその人にしか作れない作品である点が評価されたのかなと思います。

Q 波伝谷との今後の関わりについてはいかがでしょうか。

A『願いと揺らぎ』我妻和樹波伝谷とは撮影の有無に関わらず、ずっとお世話になってきた地域ですし、関係性自体はこれからも続いていくと思います。いま現在は編集中の作品はありますが、腰を据えた新たな撮影はしていません。いずれはちゃんと撮る機会がきっと来るだろうし、ライフワークとして常に自分の側にある題材だと思っています。2つの作品を完成させて大きかったこととして、波伝谷の人たちも映画を観てようやく僕が何をしたかったのか分かったかと思います。形にあるものを見せてはじめて深まる関係もあると思います。『波伝谷に生きる人びと』は震災までで映画が終わっているので、僕の中でそれ以降を形にできていないという引け目に似た思いがありました。『願いと揺らぎ』が完成するまで、震災後に現地に入って感じてきたことを僕自身からは何も発信していません。まずは映画という形を作らなければ何も始まらないと思っていたからです。それがこの『願いと揺らぎ』で、最終的に現在までを描くことができたので、自分の中で課題だった震災後の表現を形にすることができました。そうして作品が完成したことで自分の中での気持ちも変わりました。波伝谷を伝える方法としては映画という手段にこだわらなくてもいいんだと、逆に映画を完成させたことでそう思いました。

Q 今後の映画そのものとの向き合い方についてはいかがでしょうか。

A我妻和樹僕は波伝谷だけにこだわりたいわけではないですし、劇映画を撮りたいという気持ちもあります。いま編集中のドキュメンタリー映画を完成させた後は、そういう取り組みもしたいです。

Q ちなみに映画そのものに関心を持たれたのはいつからでしょう。

A我妻和樹小さな頃から空想したり創作するのが好きで、小学5年生の頃には映画を撮りたいと決めていました。当時、お小遣いをすべてレンタルビデオにつぎ込むような子どもでした(笑)。中学3年生の文化祭で初めて短編映画を撮りました。当時は岩井俊二監督やウォン・カーウァイ監督の影響をバリバリ受けていたのですが、いざ映画を作ってみたら、自分が思っていることを表現できる力量がないことに愕然としました。中学生なりにデビュー作には華々しいイメージを持っていましたが、自分のドロドロした気持ちや一緒に作ってくれた友達に申し訳ないという気持ちがトラウマになって、この先10年は作ってはダメだと思いました(笑)。どうすれば自分の映画の表現ができるのだろうとモヤモヤしながら大学では民俗学と出会って、ドキュメンタリーに触れることになりました。僕が考えている以上に魅力的な人たちや複雑な社会が現実に存在していて、当時の僕はまずそうした現実から学ぶことが大切だと思ったのです。波伝谷での撮影も、自分一人でしたのでドキュメンタリーしか方法もありませんでしたが、それ以上に波伝谷の人たちとその土地の風景や空気も含めて、ドキュメンタリーを撮りたいと思わせる魅力がありました。だから卒業後は就職せずにアルバイトをしてでも撮ろうと思いました。いまにしてみればよくそんな決断ができたものだと思いますし、今でこそ親も認めてくれていますが当然反対もされました。始めた後は自問することも正直ありましたが、こういうことは勢いが大事ですね。

Q 我妻和樹監督からOKWAVEユーザーにメッセージ!

A我妻和樹震災と言うと、多くの方は被災の状況をイメージするかもしれません。震災があって初めて現地に行って表現をした作品はたくさんありますが、僕は震災前からそこに当たり前に暮らしてきた人たちを撮ってきましたので、そこが特徴の作品だと思います。だからこそ、震災があって何が変わって何が失われたのか、何が残っているのかが、2005年から続く12年間の記録の中で見えてくると思います。そこで描いたことは、震災というテーマを超えて、人と人が共に生きることや、その土地や地域でどう生きるのかという普遍的なテーマです。震災映画というイメージが先に立つかもしれませんが、実際にはいろんな社会、人間関係に共通するものがあると思います。
また、映画研究家の三浦哲哉さんから「“絆”とは何かをめぐる震災6年後の決定的な成果」との言葉をいただきましたが、震災後にたびたび叫ばれた「絆」という言葉はあまりにも美化されてしまいましたが、そう呼ばれたものが一体何だったのか、映画の中にいろいろな発見があると思います。

Q我妻和樹監督からOKWAVEユーザーに質問!

我妻和樹皆さんは「絆」と聞くと何を思い浮かべますか。

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■Information

『願いと揺らぎ』

『願いと揺らぎ』ポレポレ東中野ほか全国順次公開中

宮城県南三陸町の小さな漁村「波伝谷」。その震災までの3年間の日常を追ったドキュメンタリー映画『波伝谷に生きる人びと』から1年後が舞台の本作では、映画の冒頭、荒涼とした波伝谷の風景が映し出される。
津波によって集落が壊滅し、コミュニティが分断された波伝谷では、ある若者の一声から地域で最も大切にされてきた行事である「お獅子さま」復活の気運が高まる。それは先行きの見えない生活の中で、人びとの心を結びつける希望となるはずだった。
しかし波伝谷を離れて暮らしている人、家族を津波で失った人、さまざまな立場の人がお獅子さま復活に想いを寄せる一方で、集落の高台移転、漁業の共同化など、多くの課題に直面して足並みは一向に揃わない。震災によって生じたひずみは大きく、動けば動くほど想いはすれ違い、何が正解なのかも分からぬまま、摩擦や衝突を重ねお獅子さまは復活する。
それからさらに時は流れ、仮設住宅から高台へと居を構え、波伝谷で生きることを決意した若者は、改めて当日の地域の混乱と葛藤を振り返ることになる。

学生時代に民俗調査で波伝谷を訪れ、2005年からお獅子さまを撮り続けてきた監督が、ともに迷い、もがきながら、それでも復興に向けて歩み続けた人びとの「願いと揺らぎ」を鮮烈に映し出したドキュメンタリー。

監督・撮影・編集:我妻和樹
製作・配給:ピーストゥリー・プロダクツ
プロデューサー:佐藤裕美
宣伝:佐々木瑠郁

https://negaitoyuragi.wixsite.com/peacetree

(C)ピーストゥリー・プロダクツ


■Profile

我妻和樹

我妻和樹(『願いと揺らぎ』)1985年生まれ、宮城県白石市出身。
2004 年に東北学院大学文学部史学科に入学。翌2005年3月より、東北歴史博物館と東北学院大学民俗学研究室の共同による宮城県本吉郡南三陸町戸倉地区波伝谷での民俗調査に参加。2008年3月の報告書の完成とともに大学を卒業し、その後個人で波伝谷でのドキュメンタリー映画製作を開始する。
2011年3月11日の東日本大震災時には自身も現地で被災。その後震災までの3年間に撮影した 240時間の映像を『波伝谷に生きる人びと』(2014年/135分)としてまとめ、2014年夏に宮城県沿岸部縦断上映会を開催。その後自主映画監督の登竜門として知られるぴあフィルムフェスティバルの PFFアワード2014にて日本映画ペンクラブ賞を受賞し、2015年8 月以降全国の映画館にて公開。
現在は長編ドキュメンタリー映画の製作を控える傍ら、みやぎシネマクラドル、吉岡宿にしぴりかの映画祭など地元の映像文化発展のための取り組みも行っている。

https://twitter.com/zukizuki_kun?lang=ja